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菅義偉の逸話とは?生い立ちや若い頃のエピソードを調査!

政治

菅義偉官房長官は安倍首相の後継者として次期総裁選有力候補とされていますね。

長いあいだ官房長官として職務に励み、一般には「令和おじさん」とも呼ばれて親しまれています。

そんな菅義偉さんのことは、次期首相かもと思うと俄然気になってきました。

政策や思想などについてもさることながら性格や考え方がわかる人間味のあるエピソードを知りたいと思います。

そんな菅義偉さんの逸話について調べてみました。

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菅義偉の生い立ちなどの逸話

みなさん結構ご存知かと思いますが菅義偉さんは田舎から出てきて、いわゆる叩き上げで政治家になった方です。

安倍首相や小泉環境大臣のような多くの二世議員でもなく、資産家の家で生まれたわけでもなく、官僚だったわけでもありません。

生い立ちには以下のようなエピソードがあります。

  • 父親は秋田県のイチゴ農家「秋の宮いちご」のブランド化に成功した
  • 進学した秋田県立湯沢高等学校には二時間もかけて通学した
  • 高校時代は、目立たない生徒で、自分の殻に閉じこもっているような印象
  • 高校卒業後集団就職で上京して、板橋区のダンボール工場に就職
  • 東京へ行けばなにかが変わると夢を持っていたが特に何も変わらず、いいことはなかった
  • 東京へ出てから二年後アルバイトしながら法政大学第二学部政治学科へ進学
  • 法政大学を選んだのは私学の中で一番学費が安かったから
  • 学費は全部アルバイトで稼ぎ、ガードマン、新聞社の使い走り、食堂のカレーの盛り付けなど毎日アルバイトをする。
  • 大学時代は空手部に入部して心身を鍛えた
  • 卒業後は政治家になりたいと、法政大学就職課のつてをたどって、衆議院議員小此木彦三郎の秘書になる。

まあここまでは、真面目な努力家っぽいですがそんな派手なエピソードはありませんね。

周りの大学生たちは遊んでいたでしょうが、ダンボール工場で働いていたなどとても庶民的で苦労されたんだという印象です。

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菅義偉が政治家になるまでの逸話

菅義偉さんは自民党の衆議院議員小此木彦三郎氏の秘書を努めその後、横浜市議会議員になります。

そして、その後神奈川2区から自民党公認で出馬して1996年衆議院議員に初当選します。

それまでには以下のような逸話があります。

  • 就職してから参議院議員選挙を手伝った時の働きぶりがすばらしくて様々な政治家事務所から誘いが来て、結果小此木氏の秘書になった。
  • 引退する市議会議員から後継者になって欲しいと頼まれたが、別の若い自民党議員がその選挙区の候補者にいた。その自民党議員は一緒に出馬しよう、「菅ちゃんだったら争ってもいい、一緒に頑張ろう」とまでいって説得したが、友達と選挙戦を戦うのは嫌だったので、菅氏はその後継者になるよい話を断ってしまった。
  • 代わりに別の選挙区から横浜市議会議員選挙に出馬した。出馬した西区はとても厳しい選挙区で皆が勝ち目がないからやめろ反対したが、本人の意志が硬く秘書を辞めて出馬した。
  • その日から菅氏はひとりで西区の家を一軒一軒まわり1日300軒、3万軒を回った。
  • 6足の靴を駄目にした。
  • ボロボロの靴を見た人は別の候補者の支持者だったにも関わらず「菅さんは必ず当選するよ」と言った。
  • 頑張りすぎてお昼に入った蕎麦屋で一度倒れたが、休んだ方がいいと言われてもまた家を一軒一軒まわりはじめた。
  • 横浜市議会議員の福田進氏は、菅氏の秘書時代の友人。福田氏が先に市議会議員選挙に出馬を決めると「選挙資金として使ってくれ」と菅氏は秘書をしながらコツコツ貯めたお金を差し出した。断っても聞かないので「お借りします」と受け取った。福田氏は落選してしまい、親類に借金して菅氏にお金を返しに言ったが、絶対受け取ってくれず、次絶対当選するから、一緒に頑張ろうと言ってくれた。
  • 福田進氏が市議会選挙に落選した年の夏に、秘書時代の菅氏が「ボーナスが出たので高島屋で一緒に背広を作ろう」と言ってきた。お金がないと断ると「お金は自分が出すから、一緒につくろう。その背広を着て、ぴっしっとして応援してくれた人に挨拶にいけば、皆安心して嬉しがるから」と言ってきかないので、菅氏にお金を出してもらい夏物の背広を作ってもらった。毎日その背広を着て歩き次の選挙で市議会議員に当選。背広は宝物として大切に持っている。

横浜市議会議員になるまでの菅義偉さんの逸話だけでも、とても実直で友達思いの人情家の性格がわかりますね。

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